死の概念、自殺の是非

死について考える人

突然だが、僕は人生で何度も”死にたい”と思ったことがある。自分以外にもそう考えたことのある人はたくさんいると思うし、生きづらさを抱えている発達障害なら尚更なんじゃないかと思うので今回はそんな”死の概念”について書いていこうと思います。

テーマこそ重いものだけど内容は『だれもが心の中に抱えている考え』のような身近な存在としてぜひ皆さんに一読してもらいたいです。

目次

頼れない大人たち

理解のない学校の先生

『大人はいざというときに頼れない存在』というのはだれもが子供の頃に感じることだと思う。何も問題なく育てば親や先生を『なんでもできる絶対的な存在』から『不完全なひとりの人間』と捉え方が変わってくる。

しかし、クラスにいじめ問題、部活での体罰問題、家庭内での虐待など周りで何かしらの問題が起こったときの大人の頼りなさと言ったらなく、そこに居合わせると『不完全なひとりの人間』どころの評価ではなくなる。

親にあるとき自分のずっと抱えている悩みを打ち明けたときのことだった。いま思うとそれほど気になっていない、それでも子供ながらに真剣に何年も抱えていたもので満を持して思い切って言ってみたものだ。

でも、それに対しての親の反応はいま思いだしてもひどいもので、まず打ち明けたのが寝る前だったのだけれど布団から出ようとしない。こちらの真剣な想いに応える姿勢は全くなく、はやく終わらせて明日に備えたい、めんどくさいという感じがひしひしと伝わってきた。

先生も親も「なにか悩みがあったら言え」みたいに上の立場から言うけれど、本当に言ってよかったと思える大人は限りなく少ない。少なくとも僕の育ってきた人生ではそうだった。

教師は公務員であり、どちらかというと安泰に社会人生活を送りたい人寄りの仕事だ。先生の業務が安泰かと言ったらそうではないことは理解している。なにも楽な仕事なんて思っていない。しかし、少なくとも目指すきっかけとしてその部分がある人は結構いるはず。い。

親も『大学へ行き、新卒で就職して30半ばくらいで縁談を作り結婚、出産をする』というような人生のステレオタイプを生きていて何も頼れるものがない。両者とも安泰を求めて自分で考えたり決断したりすることも少ない、人間として厚みのない人生を送ってきたのでいざ頼ってみても残念な結果に終わる。

大人のそんな頼りなさに絶望して死への引き金となるスイッチが入ってしまった人もいるはず。

社会に出ても昔のやり方しか知らない上司がブラック企業の体制を変えられなかったり、問題点を進言したり、相談しても身も蓋もない言葉しか返ってこないなど、自分で考えてこなかった人が社会を回すとろくなことがない。

親は今でも人の話を適当に聞くし、話したことは覚えていないし、会話に主語がなかったり表現が大味だったり、それほど相手に対しての配慮がないのに自分はなにも至らないところがないと思い込んでいるのでつける薬がない。発達障害のこちらとしてはなるべく干渉しないということのみが自我を保つ手段だった

ある本から学ぶ死についての捉え方

積まれた本

20代の頃に読んだ江原啓之のスピリチュアルの本、ご存じの方も多いと思うが自分もそれに出会ってだいぶ救われた。最近の人は知らない人もいるかもしれないので簡単に説明すると目に見えない部分の概念や摂理みたいなことを紐解いていて、現実に辟易していた自分にとっては目から鱗レベルですごく納得がいった。

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それを読んでから『自分は今世でたいしたことができなくても来世以降の自分のためにひとつでも多く成長して死のう』というスイッチに切り替わった。あの本はしばらく読んでいないけれど、自分の行動の根っこは今でもこのメンタルのまま変わらない

例外

この本では自殺はマイナスのことと言っている。正確には成長せずに死ぬのは来世でも同じことを繰り返すことになって意味がない的なことだけれど、基本的には自殺を否定している考えだとは思う。だけれども自分はそこはそうは思わない。

なぜなら上で書いたとおり、自分は何度も死にたいと考えてきた人生だったからだ。自分の心境敵にも僕と同じ考えの人に対してもただ『学びがないなら死んじゃダメ』とか言われても困る、といった感じだ。

このスピリチュアルの本は全体的には納得いくものだったが、特に自殺と霊の部分は例外だった。霊感はそもそもなかったので死後の世界っていうものを言われてもピンとこなかったし、自殺のことに関してもさっき言ったとおり、学びたくてもそのきっかけが掴めない、そもそも産まれた環境的に圧倒的不利過ぎて自分の力じゃどうすることもできない人間だっているんだと言いたかった。

数々の苦しみを経験した上での死への印象

僕がどれだけひどい状態だったかはこちらの記事に詳しく

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とにかく自分だけなんでこんな人生なんだと悩み続けた。自殺だってしようと思ったのは一回や二回じゃない。

ただ苦しい期間はストレスだけがあって何も学ぶものがない、ブラック企業が良い例だろう。自分は一生のうちに人並みの数%しか経験せずに死んでいくんだろうと考えるととても悲しくなった。

死についておそらく人より向き合った時間がとてつもなく長かったことで達観しているところはあるかなと

そんな少し変わった人生を経ての死の概念はどんなものかをこれから書いていきたいと思います。

死ぬことは怖い

まず、僕は今までに一度も自傷行為をしたことはありません。

それは悪いことではないのかもしれないけれど、自分の死の意識への本気度について結構悩むところがあって、例えばニュースで高校生くらいの女の子が電車に飛び込み自殺したとかを聞くと「この人は死ぬことの怖さを克服したんだろうか」とも考えるし、「この世から逃げた」とも捉えられて、『死』=『強さ』なのか、『弱さ』なのかという問いをずっと繰り返していた。

定型発達の人から見たら死ぬことが怖いなんて当たり前で死なないのは良いこととなるけれど、定型発達の人生じゃなかったためにこんなことを死ぬことに対して子供の頃から考えていた。

結局、死ぬことへの怖さは人並みでどんなに辛い人生でもその発想にはなかなかならずにここまでこれて、今やっと死ななくてよかったかなと少し思える状況なのでよかった…のかな?まだ分からないけれど、昔よりずっとマシになってこれから頑張っていきたいという地点に立っているのでもうちょっと頑張ってみる。

命の重さ

だからって自殺を考えている人に対して簡単に「死なないで」なんて言えないし、そんなこと言う人は人生で死について考えたことないんだろうなと思うから確実に軽蔑する。自分も同じ状況で言われたくないし、言ってあげたくない。

もし、そのような人に声をかけてあげるなら「死ぬのはもったいない」という言葉な気がする。

それでその人が救われるなんて思ってない。別にヒーローになったり感謝されたいわけじゃなくて、死を考えるくらいの人生の中で自分で思ったことを言ってあげたい。

死ぬって考えるのはよほど辛いことがあって、それには”人”が関わっている。誰か特定の人がある人を「死にたい」と思わせるまで追い詰めている構図が必ずある。

僕が『死ぬことへの怖さ』の他に自傷行為や自殺をする行動に出なかったのは、たとえ自分が関わった誰かが自殺してもその追い詰めた人は何も感じないだろうということ。そこを考える余裕があるなら誰かを追い詰めない。大概、誰かを追い詰めたり出し抜いたりする人間はその人自身余裕がなくて心が弱くてそのようなことをせざるを得ないからやる。余裕があったり器が大きい人なら逆に手を差し伸べているだろうし、

本当に辛いとそんな余裕のない人は「自分が死んではじめてことの重大さに気づくんだろう」と考えるけど、正直、それを実行してもその人は内心やばいことをしたとは思うかもしれないが、周りにはせいぜいばつが悪い感じで頭を下げてことが収まるのを待つくらいしかできない。

死んだところで何も解決しないどころか追い詰めた側にろくなペナルティもない。本当に死にたいときは周りに味方もいないから誰かが追い詰めた人を糾弾したりも多分ない。

そう考えると悔しくて、死ぬ意味もない。だからってどうすることもできないもどかしさもあったけれど、ASDだからか意味のないことをする気にはなれなかった。

理屈で考えてみる&希望

第三者の人にも伝わるように少し距離を取って体系的に考えてみようと思う。

  • 誰かを死にたいと追い詰めるくらいの人ばかりが生き残ってしまったらこの日本という社会は終わり
  • 逆に人の痛みを分かっている人が多くなると発展していく

これは少しドライな思考だけれど本当にそう思う。最終的には努力した人が輝いてほしいという勝手な想いもある。せっかく生き直すのにそこそこの人生で終わるって思ったら夢がない。発達障害の人生もそうだけど、障害者雇用でそれなりの低水準の賃金と生活で満足できるはずがない。そんなことが頑張った向こうに待っているならそれこそ生きている意味がない。

自分の痛みはこのブログのように今の時代簡単に発信できて、それが誰か同じような苦しんでいる人に届いたらその人の助けになると思って死ぬのを諦めてみると案外ふつうに生きるより華やかな人生が待っていたりするかもしれない。

世の中に0か100はない。理屈で無理と証明できないならやってみるべき。少なくとも僕はそのモチベーションで今生きている。

まとめ:死に対してネガティブな印象だけ持つのは違う

世の中は理不尽にできている。ずるがしこいやつが出世したり、バカ正直に生きている人が損をしたり…

そんな一見まともに見えて魑魅魍魎、群雄割拠な周りの人間と割り切って付き合っていかなくては生きていけない。

何も考えずに生きている人はこちらの苦労はいざ知らずのほほんと生きている。死ぬくらいじゃないと相手に伝わらないと思うが、死んでも悲しみはしてもなぜそのような行動を取ったか気づかない。気づけるほどの大人だったらあなたはそもそも悩んでいない。

だからこそ「死んだら悔しい」という概念は持ってなんとか生きながらえているし、同じ悩みを人がいたらそう言ってあげる。

それでも死にたいとその人が言ったらもう止めないかもしれない。それはその人が悪いのではなく、その人にそうなるまで気づけなかった周りが悪い。その人の気持ちも分かる自分にとっては来世に同じ学びが待っていようが『今世から逃げたい』というその人の選択を否定できない。これを非難する人は単純に苦しいことと向き合ってこなかっただけ、同じ苦しみを知らないのにそのレベルで悩んでいる人にかけてあげられる言葉なんてない。

だけれど、ここで言った僕の苦しみに少しでも共感したり、希望の部分について一理あると捉えてもらえたら、そして、僕と一緒に頑張ってみようと感じてもらえたらおそらく数少ない同じ境遇の頑張っている仲間ができて嬉しいし、お互いにモチベーションを保ちながら共存できる存在になれると思う。

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この記事を書いた人

ASD×HSP、各種アレルギー持ち
自分の生きづらさから来る苦労をシェアしたり、『ASDのこだわりから来る一般の人とはちょっと違ったライフハック』を同じ生きづらさを抱えている人たちに提供しようと思いこのブログを立ち上げる
国家資格を含めた11の資格を保有

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